昭和三十一年版の経済白書は「もはや戦後ではない、これからの経済成長は近代化によって支えられる」と高らかに宣言された。このフレーズは流行語として人口に膾炙し、日本は高度経済成長の時代へ突入していくことになる。谷川さんはこの年に生まれた。“遅れてきた世代”こういう言葉が適当なのかどうかわからないが、昭和三十年代生まれというのは、戦争も知らなければ、学生運動の嵐にも巻き込まれていない。気がついたときには茶の間にテレビがあって、その撒き散らす情報によっていつのまにか骨抜きにされた。反抗すべき国家的圧力はすでになく、若さのエネルギーをどう使っていいのか持て余しながら、しかし具体的な将来の展望が描けないといった現代にまで繋がる若者像のさきがけといえる世代なのではないだろうか。“三無主義”つまり無気力、無関心、無責任と言われ、権力におもねることはスマートではないが、かといってアウトサイダーであることを強烈にアピールすることもできず、結局ボブ・ディランのように「風に吹かれて」いることしかできなかった若者達。大人達は眉をしかめて彼らをそう揶揄したのである。もちろんこれは当時の世の中全体を覆っていた澱んだ気配を総括して言っていることであって、個々の若者においては次の時代への模索がふつふつと沸き立っていたのである。
 
 昭和五十四年に東京学芸大学を卒業した谷川さんはその後、中国の北京へ留学する。一年間の語学研修期間の後、北京中央美術学院で中国美術史を二年間修め、そのまま外交学院、北京旅遊学院で日本語を教えることとなる。以来、北京での滞在期間は十数年に及んだ。その間、天安門事件(1)にも遭遇し、歴史の大きなうねりの中で、中国の変貌を目の当たりにしてきた。日本と中国の国情の差、そこに生きる若者達の気概。それらは谷川さんにとって実に刺激的だった。「水が合ってた。というのかな、大陸の気風が僕にはしっくりきたんですよ。毎日が新鮮で、あっという間の十数年でしたね」北京での生活は谷川さんにとって水を得た魚といった様子であったことが想像できる。東京学芸大学時代からの付き合いだった栄子さんという伴侶を得て、一人娘の薫ちゃんが生まれたのも北京だった。共に歩んでいく家族を持つことで、「なんだか性根が坐った。自分がやるべきことは“書”である」と。
 そのころ日本の書道界は大新聞社の主催する公募展がその形式を確立し、ますます拡大を図っていたので、関係者の鼻息も荒く、“今や書の本場は日本である”と多くの者が自負しているような状況だった。田中角栄と周恩来が歴史的な握手を交わし、国交が再開されたおかげで、視察や交流という名目を掲げた多くのツアーが企画され、西域の奥地や各地の石窟群を訪ねる旅にたくさんの日本人書家が参加したりした。中には著名な書家や有力な政治家がツアーの中心となり団を率いて颯爽とやってくるのを、谷川さんは通訳として北京で迎えたりしたこともあった。「大人社会の一端を見たって感じだったかな」理想と希望に燃えて、なんでも見てやろう、吸収してやろうと意欲満々の血気盛んな青年にとって、日本人書家達とは少々噛み合わなかった。「日本に帰っても、どうやって書をやっていくのか、自分でも自分の姿が想像できなかった」結局、北京での滞在は長期に及び、その後の自身のスタンスもここで定まっていったのである。         

 どれだけその環境が気に入っていても時はいつまでも止まっていてはくれない。病に伏せた母上の看病もあって、谷川さんは名古屋に戻ってきた。「日本の状況は逐一知らせてもらっていたけど、やっぱり帰ってきた当初は浦島太郎ですよね」高校三年まで過ごした名古屋の町だが、視点が違えば目に映るものも違ってくる。谷川さんは精力的に展覧会を見て回ったり、骨董店や古本屋を散策し始めた。「それまで何気なく見過ごしていた日本近代の文人や書家の書き残したものに興味を惹かれ、次第にそれを捜すようになっていましたね。それが驚くほど安価で転がっているんですよ」
 実は谷川さんとまだ相知る前に、私は一軒の骨董屋でニアミスをしていた。その骨董屋にはダンボール箱に山積みされた近代書家の大家達の色紙が置いてあったのだ。別の方から教えられて、私が訪ねて行った時にはすでに数枚だけが残されて、主だったところは売れてなくなっていた。「ついさっき、大量に買っていった客がいたなあ」店の主人は愛想ない。悔しいから「どんな人ですか」と、聞くと「それ聞いてどうするんだ」怪訝な顔つきで聞き返してくる。「お店の主人が倍の値段で買い戻すって言ってましたと伝えます」「冗談だろ、俺はそんなこと言ってないぞ」「もちろんそれを私がまた倍で買うならいいでしょ」
「あっ、そう・・・」まんざらでもなさそうな口振り。「でもダメダメ、俺にも守秘義務ってものがある」この骨董屋とは顔馴染みなので、こんな半分冗談めいた、実は結構本気の話もできる。だが結局私の提案は実現しなかった。この先客が谷川さんだったのだ。そのことが後になってから判明した。もしその骨董屋が私の希望通りにしてくれたとして、私が倍の倍でその品を購入することになったとしても、懐具合を心配するほどではなかった。どうしてかってダンボールの箱には“どれでも一枚五百円”と書かれてあったのだ。
 その気になって捜していると、こんなことに結構出くわせるくらい近代文人書画の価格凋落ははっきりとしていた。これは明らかに需要の低下によるところが大きい。優れた書画が安価であるがゆえにぞんざいな扱い方をされ、そのうち損傷し、ついには廃棄されていくという運命を強いられている。「これは忍びないことです」 近代の日本が歩んだ方向というのは西にばかり目を向け、いかに東へ向いていなかったかということのひとつの症例がこれだ。現代書と称される戦後の新しい書の展開は“空間”とか“造形”とか“概念”といった言葉が飛び交う西洋芸術のフィールドで語られることが多かった。確かに書はそういった一面を持つ。しかしその脈々とした底流にあるのはやはりそれぞれの国の文学であったり、仏教思想であったり、東洋哲学であったりするものだ。「自らが考えるところの書とはどんなものかというアウトラインが日本の書の現状を知れば知るほど反面教師のように浮かび上がってきた」 そこで谷川さんは行動に出る。「批判をしていても無駄な労力を使うばかりだし、自分の意図するところははっきりしているわけだから、その思うところに従ってやるべきことをやる」と、同志二人と始めたのが『金石書学』誌であった。金石学を中心に日中の書を取り巻く諸事情を取り上げたこの雑誌は現在も刊行を続け、谷川さんはその編集長として毎号健筆を振るっている。また、日本大学では書道史の講座も持たれ、後進の育成にも熱心に取り組んでおられる。 

 「最近、手に入れたものです」 見せてくださったのは、貫名菘翁
(9)の詩稿だった。「最近は数をたくさん蒐めるよりも質にこだわるようになりました」 まだ六十歳代の“海屋”と名乗っていた頃の作であるとのこと。「同種の詩稿五十篇を収録した別の帖を江川吟舟(10)が収蔵して出版していたんですよ(11)」 詩の内容も筆跡もほとんど同一の手になるものだった。「私が今回入手したものは、全部で百篇の詩が収録されています。菘翁の詩集はほとんど纏められていないので確認できませんが、この中にはこれまで未確認だったものも収録されているかもしれません」新発見の可能性もあるということだ。「菘翁は大字も達者にこなしますが、なんといっても細字がいい。この一冊もその魅力を充分に感じさせるものです。しかもどの詩にも印が押されていて、それがかなりの数に及びます。自用印の印譜としての一面もこの一冊はもっているのではないでしょうか」想像はどんどんと広がっていく。二百年近く前に書かれた一冊から実に多くの情報が汲み取れるのである。しかも谷川さんは実作者でもあるから、ただ眺めるだけではなくて臨書という行為を通して自分が今いる位置を確かめる。「随分と遠くまで来たもんだなあなんて思うわけですよ」誰に見せるわけでもない。自分だけの楽しみであり、充実感である。実にそういう意味で谷川さんはおおらかで、ひたすら真理を追い求める大陸的文人の系譜を受け継ぐ人である。しかも群れることなく、いつも体制とは一定の距離を置き、反骨の姿勢を貫くことで客観的な視点を持つことを旨としている。声高な自己主張を嫌い、潔くあることを自らに課しているのは、まさに文人の理想であるところの脱俗遠塵といった趣である。

 近年は台湾との交流も深めておられる。「台湾はエネルギッシュです」 確かに日本のようにわかったふりして澄ましたところがない。大陸とはまた異なった文化を築いてきたことが窺える。「故宮博物院の宝物もすばらしいけど、書を身近なものとして愛好する風潮が今も民間にしっかりと根付いている」 それは若い世代にも受け継がれ、頼もしい人材も育っているということだ。「彼らにも当然文物趣味がある。知る喜び、触れる楽しみに目覚めた人達です。それはひいては自分の中の蓄えとなる。蓄えが多ければ多いほど、新たなものに出会った時に役に立つ。比較材料をたくさん持っていた方がその品を的確に判断できるというものです」 かつて日本は漢字文化圏の国々から大きな影響を受け、今の文化を培ってきた。“独自の日本文化”などと自讃している例を国内ではよく見かけるが、これは少々思い上がりである。経済だけでなく、文化の面でもかつてのように密接な交流を持ち、お互いをいい意味で刺激しあっていくことがますますの活性に繋がることとなろう。谷川さんは期せずしてその役割を担いつつあるようだ。今や国際情勢において中国や韓国や台湾の占める部分は大きい。東南アジアを含めてアジアは世界の動向を左右する力を持つに至った。新しい枠組みの中で、日本を始めとした諸国が正しい歩みを続けるためにも、その思想の根底に歴史や文化に対する畏敬の念を忘れてほしくないと思うのである。
 「大それたことは考えていませんが、自分のやり方に従うだけです」と、谷川さんは優しい目で折帖をみつめた。

上田桑鳩(12)の木簡臨書半紙折手本


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「楽毅論」 法帖
 松田雪柯(2)旧蔵品
 初期の写真製版によるもの
      

貫名菘翁「詩稿」

「唐経残紙印本」 法帖
「上海の朶雲軒で青焼コピーのような賢愚経(大聖武)の印刷本を見つけました。陸恢(4)の題と跋文があり、山本竟山(5)から贈られたものであることがわかります。それも11月11日から12日の朝にかけて4回書かれ、陸恢の興奮が伝わってくるようです」
     

王国維(7)著「観堂集林」
伏見仲敬旧蔵

前田黙鳳扁額 「長楽萬年」
「名古屋大須の骨董市に桑名から来ているおじいさんとおばあさんがいて、雨が凌げる一角に朝早くから書画を吊って、おじいさんは紙物をおばあさんは道具を売っていました。この扁額はそこで買ったものです。いつの頃からかおじいさんは来なくなってしまい、自分も行かなくなってしまいました」

(6)王羲之
4世紀前半に東晋で活動し、“書聖”と称される。行書、草書等に洗練された美しい書を残し、書道の典型として長く後世に影響を与えた。

秦 金石(8)  戸袋絵「竹」
「張 月樵の襖絵と同じく明治天皇が使われた部屋の戸袋の絵と伝えられています」

(8) 秦 金石
昭和18年(1943)存、歿年不詳。南画家。中西耕石に師事。

墨譜
「最初は『界画』のような精巧な手描きの物であろうと思って購入しましたが、篆刻家の中国の友人からやはり彫ったものだと指摘を受けました。いつも手を動かしている人の言葉には説得力があります。仇英(3)の所蔵印が押されていますが、これに関しては定かではありません」 
    

(1)天安門事件
1989年6月4日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場に集結していた一般市民のデモ隊が人民解放軍の武力によって鎮圧された事件。  

(2)松田雪柯
明治14年(1881)歿。三重県生まれの書家。貫名菘翁に師事。晩年、清の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日した折には日下部鳴鶴・巖谷一六とともに師事。
(3) 仇 英
生歿年不詳。中国明代の画家。16世紀前半嘉靖年間に活躍。

(7)王国維
中華民国16年(1927)歿。文学、美学、史学、哲学、考古学の学者。辛亥革命後、羅振玉に随って日本に亡命し京都に居住。甲骨文の研究では羅振玉、董作賓、郭沫若とともに「甲骨四堂」とされる。

  (4)井上 靖
  『本格坊遺文』
  



         『大陸仕込みの反骨~谷川雅夫(金石書学」誌編集長 奈良教育大特任准教授)     

                      
                                                 服 部 清 人

松本芳翠屏風「瀟攦絶塵」
「購入後に『芳翠墨華帖』の年表を見ると、1960年の朝日二十人展の出品作でした」

張 月樵「襖絵」
「明治天皇が岐阜地方に行幸された折に使われた部屋の襖絵と伝えられています」

(12)上田桑鳩
昭和43年(1968)歿。比田井天来の弟子として戦後の前衛書道の中心的役割を果たす。奎星会を組織する。

(11)『菘翁自詠詩稿帖』
西東書房 昭和61年5月10日発行

(9)貫名菘翁
文久3年(1863)歿。儒学者、書画家。別号に海屋、海客、三緘主人など。市河米庵、巻菱湖と並んで“幕末の三筆”と称される。

「金石書学」誌

5)山本竟山
昭和9年(1934)歿。日下部鳴鶴に師事し、度々中国に渡り楊守敬等に教えを受けた。

「王羲之(6)欠十七行本十七帖」
「法帖に詳しい書家の方から宋拓本だと太鼓判を押されたものです」

貫名菘翁 屏風「漢詩一節」
「やはり六十歳代の海屋と名乗っていた時代のものです」

(10) 江川吟舟
平成5年(1993)歿。書家、蒐集家。日本書道美術院理事、かな書道作家協会顧問などを務めた。

(4)陸恢
中華民国9年(1920)歿。中国江蘇省呉江の出身。書画家、蒐集家。