当ページの写真作品の著作権は、全て、写真家「塚本伸爾」に帰属します。
個人、団体問わず、サイトや印刷物などに無断で転載利用することを禁止致します。

この写真はイメージであって本文とはまったく関係ありません

「清朝の末裔と円面硯」

                                         服部清人

 十七年前の出来事。古書画文房具を扱う三省堂主人の藤井は世話になっていた倉本さんから魚子紋の浮いた円形の歙州硯を見せられた。数箱のダンボ ールの中には五十面以上の硯が入っていたが、全て同じサイズのものだった。
「これはね。ちょっと曰くありの品物なんだ」
倉本さんは個人で中国をこまめに探索し、文房四宝を集めてきてはご自分のコレクションにしたり、藤井のような業者に戦利品を提供したりしている“セミプロ” といった方で、足を使って得た知識や情報は膨大なものがあったが、その中でもとりわけ墨や硯に対しての情熱は並ではなかった。
「親しくしている中国の地方博物館の館長の招きでね、いろいろと珍しい文物を見せてくれると言うから行ってみたんだが、もうひとつ私にはピンとくるも のがなかった。それで外に出てぶらぶらと建物の裏手に回ってみると小屋の中にそれが積み上げてあったんだ。でも、その時はこんな形ではなく真四角の板 状になっていて、横にはまだ整形していない原石がどかんと置かれてあったんだよ」
相槌を求めるような素振りをして横目で藤井の様子をちらっと見る倉本さんは大胆と細心が同居しているような方で相手の反応を巧みに判断しながら展開を 図るところがあった。
「たくさんですか?」
どうも、話の筋が見えてこなくて、間の抜けたことしか聞けなかったが、藤井の興味は大きく膨らんだ。
「そりゃもう、こんなかたまりがどかんどかんだ。」
どうやら倉本さんは藤井が食指を動かし始めたことを察知すると、身振りまで大きくなった。
「館長が説明してくれたところによると、石を刻んだのは清朝皇帝の末裔で少々知恵の遅れた李さんなる人物。館長は李さんに命じて黄金比に合わせた縦と 横の長さを教え、くどいほどその数字を反復させて、長方形の硯材を切り出させるつもりだった。にも関わらず、李さんはほっておいたら縦だか横だかはわ からないが、とにかくどちらかのサイズを忘れてしまい、縦横の区別なく同じ寸法でどんどんと真四角の硯材を切り出してしまったって訳だ。」
「それが山積みされていたのですか。」
「そう。公的な博物館と言っても中国の場合は常に財政難だから、売店で硯でも売って小遣いでも稼ごうと館長も目論んでいたんだろうね。普段は役立たずの李さんもこれくらいの単純 作業だったらと考えて任せてしまったんだろう。おかげで館長のささやかな蓄財の夢も泡と消えたかに見えた。私がそこへ行くまではね。」
「倉本さんが救世主となったんですね。」
「私が全部買い取ろう。と言ったら、館長喜んだよ。もう使い物にならないと思って捨て置いた真四角の硯材だからね。」

 その後、倉本さんは曰く付きの硯材を利用して、円形の硯に加工し直し、箱をあつらえて日本に向け船便で送り出す手配を取ったと言う。
「デパートに大きな催事があって、そこで大量に売ろうと当て込んだんだ。ところが船が横浜沖まで来た時にあの天安門事件さ。船は沖合いで停泊したまま 入港できず、デパートの催事には間に合わなくなってしまった。つくづく“難有り”の品なんだよ。その後、あちこちで少しずつ売ってはきたが、とても全 部は捌けない。すったもんだの挙句に残ったのがここにあるこれだけというわけさ。」
ここまで聞かされたら藤井も後には引けない。残っていたダンボール数箱分の硯を全部いただくことにした。帰りの車の中でこんなにたくさんの硯をどうし ようかしらん、と少々心配になったがなんとか売れて行き、手元に自分用の一面が残るのみとなった。あとで思えば、倉本さんが言った“清朝皇帝の知恵の 遅れた末裔”というのはなんだか怪しい。都合よくでっち上げられたお話のようだったが、それもご愛嬌のうちと、藤井は納得をした。
 
 それから十七年が過ぎた今も、その円面硯でゴリゴリと墨を磨る度、倉本さんのこと、李さんのことを想う。藤井が抱く“中国”のイメージは今でもこの円面硯の一件に 起因している。十七年前間接的に接した異国、それは藤井にとって少なからず鮮烈なものだった。そしていつも一つの連想がよぎる。
“長い歴史、黄砂の舞う大地、瑠璃色の甍、そこに生きるささやかな人々の営み”
自然はどこまでも雄大で、営々と果てしなく続くが、人生は儚い。ついそんなことに想いを馳せてしまう。倉本さんはその後不幸にして急逝された。李さんは自分が引き起こした事の顛末も知らず、世の中の移り変わりにも無頓着に今も博物館の裏手で石を切っているのだろうか。

                                             了

一滴閑話目次に戻る

トップページに戻る