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「愛と蟹をめぐる勘違い」
                                       服部清人

 古美術、骨董を扱う中川の店にやってくるのは圧倒的に男性客だが、そんな中にあって、珍しく夫婦そろってこられる桜井さんはご主人が絵画、奥さんが焼き物、というようにジャンルは違っていても「好き」の度合いは優劣つけがたいものがあり、忙しい中を月に一度はそろって来店される。ある日何の話からか、ご夫婦の馴れ初めを伺うことになった。

 「“一度聞きに来ない?”ってぶっきらぼうにコンサートのチケットを渡してくれたの」
奥さんの悦子さんがご主人の龍男さんの顔を見ながら切り出した。地元の交響楽団の打楽器奏者である龍男さんから招待されて、悦子さんが定期演奏会に出かけた時のこと。
「恥ずかしながら、それまで本格的なオーケストラの演奏を会場で直接聴くことの経験がなかった私は、その日、物怖じしながらも心地よい緊張感を味わいつつ指定された席についたの。」
悦子さんもインテリアコーディネーターという仕事を持っている才気溢れる女性。しかし彼女の場合、その才気に嫌味がない。これは偏見かもしれないが“私、こんなに凄いんです”ってことをいつも片意地張って隙を見せないようにしていないといけない様に思っているキャリアウーマンが多いと、かねがね中川は感じていて、そういうタイプはちょっと苦手なのだが、彼女にはそれが全くないのである。でもその才気は自然に漂うのである。能ある鷹は爪を隠すが、それでもその爪は何かの拍子にキラッと光ってしまうものだ。
「それまでも何回かのデートは重ねていたけど、お友達感覚だったのよね」
「僕だってそうさ、なんの下心もなかったよ。コンサートのチケットを渡したのも団員にはノルマがあったからさ。観客を一人でも多く集めなくてはいけなかったんだ」
それまで黙っていた龍男さんが口を挟んだ。お二人の掛け合いはいつも軽妙で聞いていても自然に微笑んでしまうような雰囲気を持っている。お二人にお子さんはないそうだ。だからなのか、お歳よりはずっと若く見える。中川などついうっかり自分と同年輩だと勘違いして親しげな口をきいてしまう時があるのだが、実際は中川より少なくとも十歳は上の筈である。
「“退屈だったら、寝ていて構いませんから”と言うのよ」
「それはさ、君がチケットを受け取ってもちっとも嬉しそうでなかったからだよ」
「あの時はとても忙しかったのよ。どうしても抜けられない接待が毎日のようにあったから」
夫婦漫才を聞いているようだ。
「でも、当時のことよく覚えていらっしゃるんですね」
中川の妻で店を手伝う由美子も奥から出てきて、会話に加わろうとする。
「そうなの。その日は特別なのよ。今、私たちの馴れ初めを聞かれたでしょ。その日が私たちの運命を決定付けた記念日なのよ。だからよく覚えてるの」
「実は結婚して以来、この話は何度もあちこちで披露してきているからさ、彼女の持ち芸の中でもオハコになっているんだ」
「とても面白そうなお話が伺えそうですね」
中川は襟を正す仕草をして見せた。
「そんなに構えられると話せなくなっちゃうわ」
悦子さんもつられて姿勢を正しながら上着を脱いだ。まるで落語の志ん生のような間の取り方は聞くものにも充分な準備を促す絶妙のタイミングで、確かに彼女のオハコと龍男さんが言うだけあると中川は思った。外は風が強く、少しずつではあるが“クリスマス”なんて言葉がささやかれるような季節で、心なしか通りを行き過ぎる人々の足並みが速まっているように感じられた。

  「ちょうど今みたいな季節だったわ。クリスマスコンサートというサブタイトルがついていたから。少しずつ街は活気を帯びてきて、誰もが忙しそうに立ち働いているの。私も同じだった。気持に余裕がなかったの」
「今でも時々一人でパニックになっているんだ」
目配せをしながら、龍男さんが私に向かって言う。
「もう、茶化さないで」
「はいはい、しばらく黙っています」
「その日、私はぎりぎりまで時間が詰まっていて開演に間に合わないかもしれないと彼に電話を入れたのよ。そしたら“第一楽章が終わるまで入場させてもらえないかもよ”なんてのんびりした調子で言って、全然関係ない話を始めるのよ。“すきやきがいいか、蟹がいいか、それとも洋食がいいか”って。食事に誘ってくれるつもりらしいの。でも私、その電話の時も急いでいたからそんなことはどうでもよくって、とにかく開演に間に合わなかったらどんなふうに係の人に言って、入れてもらえるのか、それを聞きたかったのよ。なにせ初めてのことでしょ。恥ずかしい思いはしたくないじゃない」
「なるほど、それで慌てながらもなんとか開演に間に合ったのですね」
「そう、心地よい緊張感を味わいながら指定された席についたのよ」
「やっと振り出しに戻った」
龍男さんが今度はうちの家内を振り返りながらまた一言。しかしこれが結構話のリズムを作っている。
「曲はシベリウスの交響曲。正直言ってどんな曲だったかもまったく思い出せないけど、会場の張り詰めた空気は初めての私を魅了した。“なんだか悪くないな、この感じ”って一人で思ってた。それだけ演奏に集中できたのよ。煩わしいことを忘れて、退屈を感じるどころか、まして眠たくなるなんてまったくなくて、全てがすうっと入ってきたの」
「感覚的な表現だよね。もう少し適確な言葉で表現できないものかね」
「何言ってるの。“音楽は考えるものじゃない。感じるものだ”ってのがあなたの口癖でしょ」
「技あり!ですね」
柔道の審判になったつもりで中川が悦子さんを指差す。
「それでね、私は次第に自分が演奏者と一緒になって呼吸をしていることに気がついたのよ。他の聴衆もそんな感じなの。一体感。そう、会場がだんだんと一体化していくの。自分もこの演奏に参加しているような気持になっていくのよ」
「それがコンサートの一番の魅力ですよね」
由美子が言うと皆が同時に頷いた。
「バイオリンの音色が余韻を残してホールの天井に吸いこまれていくと第一楽章が終わる。息を詰めていた聴衆が我慢していた咳払いを重ねる。ここしかないって調子で。あれも私は好きなの。映画なんかでも主人公が危機一髪って時、思わず体が動いちゃうでしょ。『インディー・ジョーンズ』なんて、何度観ても同じように反応しちゃう。見ると周りの人もみんな同じようにしてるの。そして危機から脱出して、ほっと一息の一瞬に観客の誰もが安堵の溜息を漏らすのよ。あれも好き」
「そういう連帯感を求めたがる人物ってのは体制に飲み込まれやすいんだ」
例によって龍男さんの合いの手。
「ほっときましょ、この人のことは。それよりもほっとけないのはその日の彼のことよ。私、気がついたの。第一楽章が終わっても彼は一度も楽器に触ってないのよ」
龍男さんは打楽器奏者だから打楽器全般をこなすわけだが、曲によってはなかなか出番が回ってこないこともある。
「彼がその日どんな楽器を演奏するのかも聞いていなかったし、最初の内は演奏の迫力に圧倒されちゃって細かいところまで注意がいかなかったのよ。でも彼がどこにいるかくらいはわかってた。だって彼ってご覧の通りの大男でしょ」
たしかに龍男さん、学生時代はラグビーの選手で学生選手権にまで出場した名門のウィングだった。体躯はがっちりとしているが、かつては足も相当速かったらしい。
 「第二楽章が始まると次第に彼のことが気になってきたのよ。少し落ち着いて回りの様子が見えてきたのね。でも彼はまったく動く気配もないのよ。じっと指揮者の方を見つめてるの。いつもの彼とは様子が明らかに違ったわ。真剣なのよ。普段はゆるんでるけどね。今もそうだけど昔もそう。その時の彼はまるで鎌倉の大仏みたい」
「なんですか、それは?」
中川が思わず聞く。
「じっと前をみつめて、無を奏でているみたいなの」
「鎌倉の大仏さんて、目は下をむいてるんじゃないですか」
由美子が話の腰を折る。龍男さんがそうそうと首を振り拍手の真似を。悦子さんはそんな二人を無視して、
「時を後ろへ後ろへと追いやって、じっと待っているの。でも何かを刻印してる。億年の時の重みを背負った石のように」
「よッ、珍しく文学的表現だ」
龍男さんが間髪を入れず、
「しかし、もうすこし、適確な喩えはないものかね。鎌倉の大仏ってのはねぇ。これから演奏会の時に考えちゃうよ。聴衆からは今の俺は鎌倉の大仏みたいに見えてるのかなぁなんて」
「本当にそんなふうに見えたのよ。しかも私はその姿に感動して、好意的な意味で大仏って言ったのよ」
龍男さんもご自分のことは多くを語らない。しかし誰もがこの方の“潔さ”のようなものを認めているのではないだろうか。ご自分のペースとか領域とか信念とかがきっちりとしていて、それが少し接していると伝わってくる。アイビー世代の申し子と言ってもいいわけだが、今もそのスタイルを踏襲している様子は見ていてとても気持の良いものだ。髪は短く刈りこんで、シャツは決まってボタンダウン。それにご自分でアイロンをあてると言う。歯の磨き方から食事の仕方、仕事関係のスコアファイルの並べ方に至るまで、身の回りの生活に関わるすべてに龍男さんの息遣いが感じられないものはない、ということを以前悦子さんから伺った。
「なるほど、お話の様子ではその時点で悦子さんはすでに龍男さんの術中にはまってきていますね」
中川が野球の解説者になったつもりで分析すると、
「そうだったのかなあ。うーん、そうかもしれない」
と意外に素直な答えが返ってきた。
「曲は後半に差し掛かり、次第に指揮者のタクトが大きく動き出す。それに合わせて演奏者の姿勢も前後に揺れ出すの。音が音を呼び、舞台の上に渦が巻いて、やがてクライマックスに達し始めた時、彼が初めて立ち上がったの。それはもう毅然として凛々しくて、まるで風に向かって立つライオンみたい」
「今度はライオンだ」
龍男さんが照れ隠しにライオンの真似を。
「大仏がライオンに変身ですね」
由美子もおどける。
「ぱっと手に取ったのはシンバル。瞬間私は正直言って拍子抜け。シンバルが悪いって訳ではないのよ。シンバルを構えた姿がお猿さんのように見えたの」
「上げたり下げたり、忙しいですね」
「ほら、おもちゃのお猿さん。シンバル持ってしゃんしゃんしゃん。あれをイメージしちゃったのよ。大きな体にシンバルが小さく見えるの」
悦子さんの表現は突拍子もないが、なんとなくその時の臨場感は伝わってくる。
「彼はシンバルを抱えたまま、その時が来るのを待っていた。私はもう他のものは何も目に入らなくて彼だけを見ていた。そしたら彼も私を見ていたの。耳には音が洪水のように流れ込んできて気持ちはどんどんと昂ぶって、神経が研ぎ澄まされていくのを実感したわ。彼は私がどこに座っているかってことを先刻承知だったのね。はっきりと私のことだけを見つめているのよ。舞台の上と客席と、でも私は距離を感じなかった。そして最初の出番がやってきた。大きく両手を開いて、それまでとはまったく異質の貫くような破裂音を響かせたの。その時だけは指揮者を凝視していたけど、次の瞬間また私のほうへ向き直って、大きく口を開いて見せたの。私にはその唇の形が、はっきりと“ア”だとわかった」
「聞こえたんですか」
「読唇術よ」
「そんな心得があるんですか」
「全然。でも声まで聞こえたような気がしたのよ。続いて二打目。しばらくの間があって再登場。前と同じように彼は立ちあがり、今度は“イ”、連続して三打目は“シ”。結局その日の演奏で彼がシンバルを叩いたのは五回。あと二回は言うまでもなく“テ”と“ル”よ。」
「わあ、すごい。じゃあ、ご主人はクラシックの演奏の中で奥様にプロポーズなさったんですね。ドラマチックというよりはクラシックチックぅ」
由美子がいつものことながら訳のわからない感激の仕方ではやし立てると、
「とまあ、そんなふうに都合よく勝手な解釈をしたのは一方的に悦子の方なんですよ」
龍男さんが自分の出番だと言わんばかりに姿勢を正した。まるで今からシンバルを構えてここで一撃というような調子だった。
「私は舞台の上から確かに悦子のことを視界の内に捉えていました。そのことは認めますよ。でもそれは電話をくれた時、きちんと約束のできなかったコンサートが終わった後の食事の件を、つまり何を食いに行くかを伝えたかったんです」
「どういうことですか?」
「わたしはね、“カ”“二”“イ”“ケ”“ル”って聞いたんですよ」
「カ二イケル?」
「そう。すき焼きがいいか、洋食がいいか、蟹がいいかって聞いていたのに忙しそうに電話を切るものだから、私はその後もあれこれと思案した挙句に蟹がいいと思って、そのことを伝えたかったんです。蟹を食いに行ける?って意味です」
「何もシベリウスの交響曲にのせて言わなくても・・・」
「その時言っておかないとコンサートが引けた後に急いで先に帰ってしまわれるのではないかと心配になったのです」
「律儀な性格がそんなところにもでてしまうということですね。でもどうして“蟹行ける”が“愛してる”になるのですか?」
「思い込みと、下手な読唇術の結果ですね」
「二つの言葉は口の動きがほぼ同じなのよ」
今度は悦子さんが突っ込み役に回って、そう言いながら通常よりもはっきりと唇の形を示して繰り返して見せた。私たちはお互い向き合って、「あいしてる」と「かにいける」を繰り返した。
「確かに声に出さなければ同じだ」
中川が言うと、
「でしょ」
と龍男さんがしてやったりといった感じで右手の親指を一本立ててポーズする。
「と言うわけで、私たちの馴れ初めは一応私の勘違いから始まったことになっているんだけど、私は今もやっぱりあの時“愛してる”と言ったと密かに思っているのよ」
悦子さんは茶目っ気たっぷりに笑って見せた。
「今となってはどっちでもいいことだけどね。私にとってはあの愛と蟹をめぐる勘違いが結果オーライだったってことね」

 その日お二人は龍男さんの希望を優先させて、竹内栖鳳の小品で猿回しの猿を愛らしく描いた『芸猿』という掛け軸をお買い上げ下さった。
「シンバルは持ってないけど、このお猿さんのとぼけた表情がとてもいいわ。実は今日は結婚記念日なのよ。それで何か記念になるものを探していたの。まさか鎌倉の大仏や風に向かって立つライオンは買えないものね」
帰り際に悦子さんがそう言って、さっと龍男さんの腕にさりげなく手を回した。それがとても自然に見えた。
                                             了
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