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『深い闇の中の子猫』
                                  服部清人


 ― そういえば最近、漆黒といえるような闇に包まれて、動揺するといったことがめっきり少なくなった。
と、幸次郎は思う。それは幸次郎が都会で生活しているからだろうか。それとも分別のつく大人になったからだろうか。確かに今や都会は眠ることがない。深夜になってもどこかで照明が足元を照らし出してくれている。目の前の自分の掌さえ見えないような暗さに不安を抱くような場所は探してもなかなか見つけられなくなった。
 幼い頃に住んでいた美濃の山中には普段人の立ち入らない洞窟があって、そこを子供たちだけで探検したことがあった。自分の掌さえ見えない闇の中でただでさえ不安になっているところへ、眠りを醒まされたこうもりが突然飛び出したものだから、皆ほうほうの体で逃げ出した。腕白で仲間のリーダー格である謙吉も逃げ出すとき転んで、足から血を流しながら半べそかいていたが、幸次郎だけは息も荒げず呆然としていたので、「何カッコつけてんだよ」と、謙吉の口癖を浴びせられた。本当のところ、闇に包まれた時にはじめて感じた感情、恐怖とは異なる自分の存在が消えてなくなることへの初めての確かな実感、その方が大きくて呆然としていたのだ。謙吉から見れば幸次郎のその姿は“カッコつけている”ように見えたのだろう。その出来事が自分の原点になっていると幸次郎は思っている。子供の頃は何度かそんな気分に陥ることもあったが、都会で生活し、感情をコントロールすることが上手くなった今では次第にそんな感覚も忘れがちになっていた。  

 幸次郎は東京の大学を卒業し、そのまま郷里には帰らず就職をした。十年勤続し、会社でもそろそろ中堅と呼ばれる立場となっていた。それなりに仕事にも責任を負わされる。コンピューターシステムの開発チーム主任というのが肩書きだ。三ヶ月後に統合が予定されているメガバンクのオンラインサービスに関わる仕事に毎日没頭していた。そのため、業務は深夜に及ぶことがあったが、会社の仮眠室ではゆっくり休めないので、なるべく帰宅するようにしていた。
 オフィスを出て最終の電車に間に合いそうな時は駅に向って歩く。最近、その道すがら取り壊されたビルの跡地の周囲にフェンスが出来て、内部が見えないように遮断してある場所があることに気が付いた。不思議なことに毎日その前を通っていたのに壊されてみるとそこにどんな建造物があったのか思い出せなかった。都会ではよくあることだ。フェンスが出来たことで、隣接するビルとの隙間に亀裂のような空間が生じ、ちょうどあの美濃山中の洞窟の入り口のようになっていて、そこには月明かりも届かない深くて暗い闇が形作られていた。立ち止まってその僅かな幅の空間が奥まで続く様子をしばらく見ていると、幸次郎の脳裏に子供の頃感じた不安が久しぶりに蘇ってきた。幸次郎はその漆黒の闇に自らの体を委ねたい欲求にかられた。仕事の進捗がはかばかしくなく、気持ちにも余裕がなくなっているところへ、次々と問題点が生じてきて、チームの誰もが疲れを訴えていたので、幸次郎は立場上板ばさみ状態となり、人一倍疲れが蓄積されていたのだ。そのうち人通りも途絶えた深夜の闇の中に身を置くことが幸次郎の習慣となった。それは自らを不安な状態に陥れる自虐的な行為のようでもあったが、今の幸次郎には逆に心を静める癒しの効果があった。

 そんなある日、幸次郎はフェンスとビルの隙間の闇に、先客が居ることに気がついた。それは一匹の小さな黒い子猫だった。いつものように幸次郎が闇の中に入ろうとすると、「ミュウ」という鳴き声がした。人間に対する恐怖心がないのか、物怖じする様子もなく幸次郎の足元に纏わりついてきた。真っ黒い毛玉のような子猫は完全に闇と同化しており、その姿をすぐには捉えられなかったが、小さな気配に親近感を覚えた。どうも腹が減っているらしい。近くのコンビニに戻ってミルクを買い、鞄の中から取り出したセルロイドのペンケースの蓋をトレイ代わりにして飲ませてやると、小さなからだのどこに入っていくのかという勢いでパックの半分の量を飲み干した。おかげでその日は最終電車を乗り過ごし、タクシーで帰宅することになったが、それ以来、深夜の猫の世話が幸次郎の一日の締めくくりの儀式となった。

 蜜月は数日間続いた。しかし別れは突然にやってくる。フェンスが取り外されたのだ。内部の整地はすっかり終わって、とりあえずそこは駐車場になるらしく、朝、幸次郎が出勤する際、作業員たちが子猫のためにあつらえた幸次郎のセルロイドのペンケースを踏みつけながら撤去作業をしているところをちょうど目にした。子猫はねぐらを失ったことを理解できているのだろうか、あたらしい場所をみつけ、あたらしい誰かの世話になっているのだろうか、と心配しながら、なんとなく悪い予感がした。

 予感は当たっていた。翌日その場所を通ると車道の端に敷物のようになった小さな黒い子猫の死骸を目にしたのだ。瞬間に子猫の死にいたるまでの映像が脳裏にフラッシュバックした。すべてのことを理解したにもかかわらず、幸次郎は子猫の死骸を直視しなかった。事実をきちんと受け入れて、感情の起伏を素直に肯定すればいいのに、どこかでそれをうまくやり過ごす術を覚えてしまった自分がそこにいた。
―― われわれは限られた時間を生きているんだ。われわれは過ぎて行く存在なんだ。
 前を向いて歩きながら、またいつものように、そんなふうに昇華しようとする自分に対して、「何カッコつけてんだよ」と、謙吉の口癖が聞こえたような気がした。しかし、もし目の前に謙吉がいても、「確かにな、外からはカッコつけてるようにしか見えないかも知れないな・・・」と言うしかないだろう。深い闇の意味はわからないものにはわからない。幸次郎はその日も前日やり残した仕事が待っているオフィスへ急いだ。
 
                                        了



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