『「風花庵」コレクション余話 2 ―パリへの憧憬―』

真 生間  



大久保 泰 「マロニエの花咲くセーヌ河畔」


 働き盛りの現職の頃に、鹿児島へ出張を命じられた。
 小学生の頃に寺の本堂・大屋根にのぼって以来、高所恐怖症となった(と信じている)私は、計画的に左右ちょうど真ん中あたりになる座席をとり、緊張して機上の人となった。乗る前に空港のトイレに二度も通った。自己防衛本能が働いている結果の心因性下痢である。機が空に舞い上がっても、窓外を見ないのが鉄則。眼下の風景はおろか、流れる雲さえ眺めようものなら、ここが雲上であることの自覚症状から、恐怖の連鎖が起こる。
 雑誌をひらいて目に入らない活字をひたむきに追って、時の経過にひたすら身をゆだねていると、一緒に乗った上司のたまわく。「おいKくん、桜島がきれいに見えるぞ」、さらに「ちょっと失礼」と言いながら、桜島が見える窓辺に移動。それにつられるように、まわりの人が一斉に一方の窓側に体を寄せはじめる。「飛行機が傾くのではないか」。理屈ぬきの恐怖で、反射的に体を人々と反対側に傾ける。脂汗(あぶらあせ)が皮膚にじとっと絡んでくる感触が確かにあった。
 また一方、妻の慰労を名目に、北海道旅行と張り込んだときは、空港を離陸した途端、がんがんと言葉に言えぬ衝撃が起こり、頭が今にも割れそうになった。こめかみのあたりが鉄の鎖で締め付けられたような痛み、どうにかなりそうな不安で、とてもじっとしてはいられない。
 私は客室乗務員を呼び、「あのう、頭が割れそうなんですけど、飛行機に乗ると、こういうことはよくあるんですよねっ?」と、思いあまって尋ねた。すると、若き日の岡田茉莉子を思わせる美女が、「そんなことおっしゃる方、あなたさまが初めてですよ」と、つんと澄まして、意地悪げに(と思えた)お応えになられた。
 で、その夜、妻は「100万ドルの夜景と言われるだけのことはあるわ、函館に来たかいがあった。あれを観られないとは、なんてお気の毒な……」。頭痛の余韻にひたって、ホテルのベットに身を沈めている私に、しみじみと言った。

 それ以来、私は飛行機に乗らなかったし、飛行機を利用する旅行とは無縁になった。というわけで、海外へと夢を馳せることもなくなったかわりに、ヨーロッパ、とりわけ芸術の都パリ・モンパルナスへの憧憬は、募るばかりであった。
 パリの匂いを伝える作品が、何点か今私の手にあるのは、こうした背景があるからなのかもしれない。

 藤田嗣治の銅版画「ポール・クローデルの肖像─大和魂への一瞥より─」は、珍しくデパートで買った作品だ。
 妻の姪が開業医に嫁いで、新築した医院に絵を飾りたいというので同行した折、M百貨店で開催していた「ヨーロッパ版画展」で、極細の美しい線で強いまなざしの男性を描いた一枚の銅版画が目にとまった。小さな画面のなかに「嗣治・Foujita」の版上サインがあり、マージン(余白部分)には「Foujita・嗣治 8/25」と肉筆サインがある。「もともと20数枚しか刷られていないので、今世界中に何点残されているのか分からない」と、担当者は言う。バブル経済がはじけた時期で、美術品の価格も大きく下落していた。無理をすれば買える値段である。姪への助言もそこそこに、気がつくと私はそのエッチングの小品を手にしていた。
 ちなみに姪が求めたのは、題名は忘れたが、シャガールのリトグラフだった。
 日頃は万人向きの無難なものばかりが目につくデパートのギャラリーで、奇しくも私の手に落ちたこの小品は、「風花庵コレクション」のなかでは、納得できる数少ない作品のひとつとなった。

 ポール・クローデルは名にし負うフランスの詩人であり、劇作家・外交官でもあった。姉のカミーユ・クローデルは、かのロダンの愛人であり、悲劇的な生涯を送った女流彫刻家である。彼女の生涯は確か近年映画化もされたが、それはともかくも、クローデルはその華麗なる生涯のなかで、藤田嗣治との接点はどこにあったのか、藤田の評伝や年譜にその痕跡を求めたが、拙い私の知識・能力からは、たいした手がかりも得られなかった。
 藤田嗣治の画業については、昨年(2006年)も東京・京都などで「生誕120年」と冠した大規模な回顧展も開催されたし、近年、本格的な画集やその評伝、あるいは彼とその周辺をモデルとした小説なども相次いで出版されている(「藤田嗣治画集─素晴らしき乳白色」・近藤史人著「藤田嗣治─異邦人の生涯─」いずれも2002年・講談社刊。清岡卓行著「マロニエの花が言った」1999年・新潮社刊など。なお、近藤氏はNHKスペシャル「空白の自伝・藤田嗣治」の担当制作者)。
 これは戦争責任の問題などから、藤田、さらにはその著作権継承者である君代夫人の意向で、作品の公開拒否などが長年続いていたものが、NHKスペシャルの放映などを機に、夫人の日本に対するかたくなな態度が徐々に氷解してきたことが大きいのではないか。
 回顧展を観に京都へも行ったし、これらの著作にも目を通したが、藤田とポール・クローデルがどれ程の濃密さで交流があったのか、モジリアニやパスキン、キスリング、スーチンなどとの色濃い交友のなかには、クローデルの名を見いだすことはできなかった。わずかに、藤田と数年間ともに暮らしたユキ・デスノスの回想録(1979年・美術公論社刊)には、日本の大使館で藤田とともにクローデルに会ったときの様子が書かれているが、彼は知識人というよりもプライドの高い傲慢な男と素っ気なく、そこからは藤田とのやりとりも伺えない。
 ある時、主にフランス近代版画を扱う画廊を訪ね、美人の女主(あるじ)から藤田嗣治のカタログ・レゾネを見せられた。そのなかに確かに「ポール・クローデルの肖像」はあったが、フランス語の読解はできず、わずかに1923年の作品であり、25枚刷られたということだけは確認できた。
 遂に制作の動機は分からず仕舞いだったが、小さな版面に描かれた男の眼(まなこ)から受ける意志の強さや、何か眦(まなじり)を決するようなその表情から、私はむしろ藤田自身の裡にある不屈の精神や、画家としての強い自信を読み取ることができたように思う。
 1923年といえば、藤田の画家としての絶頂期のはじまりであり、社交界の寵児として多くの伝説を生み出したまさにその時期に、このような一見地味な、そして雅味な小品がつくられていたことにも注目したい。

 印象派やエコール・ド・パリの画家などパリで活躍した画家も、版画の小品ならば、少し頑張れば購入可能だ。藤田のエッチングと前後して、マリー・ローランサン「小さなクリノリン」、エドワール・マネの例の「ベリテ・モリゾの肖像」、私の好きなモイーズ・キスリングの「女性像」などのエッチング・リトグラフが手に入った。マリー・ローランサンの銅版画は1924年の作品で、繊細な線が伸びやかだが、余白の端正なサインがなければとても彼女の作品とは思えない。小さな宝石を見るような、美しくおしゃれな少女の立像である。
 所蔵する日本人画家、大久保泰の「マロニエの花咲くセーヌ河畔」や在欧画家山下充の「サントロッペ」などと一緒に、これらの小品を壁にかけてみたい。それが哀れな高所恐怖症、今の私のささやかな願いである。

 翼よ、あれがパリの灯。それにしても、一度は行ってみたいパリ・モンパルナス。海外旅行慣れの友人は、飛行機に乗る前に、適量の3倍の自家製梅酒と、やはり3回分の睡眠薬(手に入ればのことだが)を一度に口に放れば、たぶん大丈夫、何処かへはたどり着けるというのだが……。


2007年7月7日
(元自治体職員)




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