『人生は勉強』

星野 章  

水注
かつては高価であったが使われる場面が少なくなり、茶の道具として使われる程度。寂しい限りである。

 日本も最近は住み難くなったと言われるが昔から人間社会には、いろいろな争いと謀略があったようで、日常の極めてありふれた生活の中にも騙されることがある。振り込み詐欺とか儲かる投資の話とか、美味しい話には何か裏があり、こうした話は見渡せば限りなくある。或る先生との出会から、骨董品に関心を持つようになり、この40年間、こつこつと小遣いを貯めては骨董を購入してきた。40年も過ぎると熱も冷めてくるようで最近、ようやく物事を冷静に眺めることができるようになった。随分と遅い目覚めで、よくも40年もの長い間、熱も冷めず買い集めてきたものだと、自ら感心している。お陰で我が家はゴミの山で、そろそろ、このゴミを何とか処分をしなくてはと思うこの頃だ。

 骨董の世界は、正に騙しあいの世界である。欲深な小生は騙され上手でもある。結婚後、ある人の紹介で骨董屋に伺ったところ桃山志野の茶碗と瀬戸黒の茶碗を見せられた。姿形がとても好い事から気に入り予約をして、妻にも了解を得て借金までして購入した。

 茶碗が届いて後、機会あるごとに眺め、使用していると、その茶碗の良さと桃山志野ということを前提にした問題点が見えてきて、時間の経過と共に自分の判断が甘かったことを悟りつつ、周りの人に聞いてもはっきりした答えは返ってこないため、その道の専門家を訪ね聞いたところ、この志野釉は昭和になってから滋賀の方で採取したものだと言われた。

 或る時、茶道家元の軸を紹介された。目利きという人に見てもらうとこれはだめと言われ道具屋に返した。道具屋が家元に持って行ったところ、是非、引き取らせてくれと言われたということで喜ぶことしきりである。

 古い高僧の書など道具屋には様々なものが集まる。勉強のためと思い購入し、眺めていると次第に欠点が見えてくる。処分を頼むと、時として嬉しい結果が得られる事もある。

 有名で人気のある物ほど贋物が多い、これは需要と供給との関係でお客さんのニーズに応えるため何処からか需要に合わせて物が生まれてくるようである。その時代を反映した贋物が誠のもののように一人歩きしている。本家の楽茶碗などは大げさに言えば100の内99が贋物といってよいほどだ、古今東西どの時代においても真贋の見極めは難しいようである。欲しいと思う人が多い物ほどそれに比例して贋物も多く市場に出回るようになる。

 北大路魯山人が造ったと言われている食器等は数万点あると聞いていおり、これが料亭とか世の中の好事家のところに納まっている。驚くほど多くの作品が市場に出回っているが、それに輪を掛けるほど贋物も多い。作家物は一般に亡くなられて後、時間の経過とともに値段は低下していくが魯山人に限っては本人が亡くなり既に40年数年が経過しているのに値上がりしているから不思議である。

 これとは別に昔から骨董品は価値を高め、売りやすくするため、その道の専門家に本物である旨の極めをしてもらうなど箱書きを延々にしてきた。その結果、一つのものが何重もの箱に収まり、その時代の権威者が箱に極めをしている。これを有難く高価な金額を支払って購入する。これが贋物であったらどうだろうか・・・・何事も人生勉強である。


2007年10月1日
(団体職員)




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