『プッチーニ・パワー・フラワー』
                                                       伊藤 格
   

  

   

 イタリア中部のトスカーナ州。世界的な観光都市フィレンツェを州都とし、ウフィッチ美術館に代表される数々の芸術、美しい丘陵風景、トスカーナ料理にワインなどで有名だ。今回、同州の一都市ルッカ県(人口8万人強)下の小さな村が音頭を取り、観光誘致を狙った外国人ジャーナリストを招いての旅行を企画した。ルッカ生まれのオペラ作曲家ジャコモ・プッチーニ、ギネスに登録される世界一小さい劇場、歴史ある椿の宝庫コンピト村、そして野菜やオリーブオイルを使った郷土料理をセットにして詳しいガイドのもと、味わい深い旅を体験した。ミラノからフィレンツェ経由でルッカまでの所要時間は3時間。州の北西部に位置するルッカは地中海に面する最寄りの町ヴィアレッジョまで電車で30分。(ミラノから海沿いのジェノヴァ、ヴィアレッジョ経由のアクセスも可。)

「城壁に囲まれた共和国ルッカと自然の地形に閉ざされた山間部の村々。双方に興味深い歴史があり、素朴な人々とやさしい味の料理、そして驚くばかりの美しい景色や建造物に心を奪われ、是非再訪したい。」これが率直な印象である。15世紀以降、この地域のほとんどの町がメディチ家を領主とするトスカーナ大公国の支配下に置かれた中、絹と金融に由来する財力を交渉に利用し、大公国との戦を避けつつ独立共和国を維持してきた歴史を持つルッカ。トスカーナにありメディチ家の紋章がみあたらないのが新鮮である。古代ローマ時代の円形劇場の跡地「アンフィテアトロ広場」はルッカの顔であり楕円形の広場を建物が囲む。この町の成立の古さを物語る。第2次世界大戦時、唯一の空爆は城壁外に落とされたため、16-17世紀建造の周囲4キロにわたる城塞が完全な状態で現存する。この城壁の内と外という概念が家の内と外、ひいては自分と他人という彼らの精神構造に影響を与えている点をルッカで強く感じた。

トスカ、ボエーム、蝶々夫人などのオペラ作品で知られるプッチーニは5世代にわたる音楽家一家のもとでルッカで生まれた。サン・ジョヴァンニ教会ではプッチーニ・コンサートが毎晩開催される。ルッカから北に車で1時間、山間部の村チェッレ・ディ・ぺスカリアには1700年代初頭からプッチーニ家が代々生活した建物があり、プッチー二博物館になっている。3階建ての石造建築で先祖代々の写真、家族にあてた手紙、手稿、両親のベッド、最初のオペラ2作曲の作曲時に使われたピアノ、エジソンから送られた蓄音機(本人はこの最先端のテクノロジーを嫌ったそうだ)、オペラ「蝶々夫人」の作曲のため日本から取り寄せた民謡が録音されたレコードなどが展示される。家の窓からの眺めは山そして山。19世紀末には多くの移民を輩出したルッカ。「世界のルッカ県人会」なるものが存在し、この日、南アフリカの同協会長も来館していた。多くのルッカ出身が炭鉱夫として働いたベルギーの病院でプッチーニは66歳の人生を終えている。

つづいて案内されたのはチェッレから車で20分ほどの村ヴェトリアーノ。ここではギネスに登録される「世界で最小の劇場」を見学した。1890年、22名の有志がお金と時間を提供して「田舎会社」を設立。納屋を劇場に改造し脚本、演出、舞台道具、俳優もすべて自らが行い、1960年まで劇場運営をしてきた。観客は各自家から椅子を運ぶ。貴族にはバルコニー席が確保されていた。若干71平米の劇場は土間席、2層のバルコニー席をあわせて収容人数80名。壁面、天井は美しく装飾がほどこされ、舞台も小さいながら立派な舞台装置が備わる。娯楽のなかった時代、観劇がいかに多くの民衆の心をつかんでいたかを痛感する。かつては限られた財源の中、ロバと汽車を乗り継いで衣装をフィレンツェまで借りにいったそうだ。現在、FAI(イタリア環境財団)の所有下にあり、月一の公演が行われている。ミラノスカラ座学校の生徒による舞台、イタリアの著名な俳優らによる演劇、さらにはメトロポリタンの芸術監督の表敬訪問を受ける立派な劇場がこんな小さな山村に存在することに驚嘆した。

ヴェトリアーノから車で15分、次は栗の村・コロニョーラ・ディ・ぺスカイア。人口80名に満たない山間の村だが、立派な教会があり、一つ一つ立派な石造りの建物と道で村が出来上がっていることにこれまた驚く。アスファルトの道路が通ったのが1960年代のこと。それまでは荷物はロバの背中に乗せて山道を1時間歩いて国道に降りざるを得ない閉ざされた村だった。「小さな植民地」を意味するこの町の名の由来はローマ時代に遡る。ここよりさらに上の山から掘り出された灰色がかった石材で建てられた建物と道は一体化し、村そのものが美しい一つの造形物となっている。長い歴史の中で現代に至るまでこの村では自足自給が成り立っていた。外界に出る必要がなく、天にとても近い美しい町、それがコロニョーラだ。ここにユニークな「栗博物館」がある 。栗の木の伐採から木材の加工、栗の実の粉砕方法、タンニン摘出法、栗材の炭製造方法など15世紀以降現在に伝わる数々の技術や道具が展示されている。これまで栗の利用に関する歴史的記述は西暦1000年以降というのが定説だったが、ルッカの古文書館から「コロニョーラは栗林に囲まれ、良質の栗材とタンニンがとれる」と記載される紀元828年の文書が見つかり、定説が覆された。夕食はこの博物館内で残りもののパンの入った豆と野菜のスープ、それに栗の粉でできた薄い焼き菓子と小麦粉と栗の粉を合わせてねった揚げ菓子を味わった。これらの栗菓子は懐かしい味がした。威風堂々とした門の上に1778年と刻印された、石づくりの整然とした前庭をもつ重厚な屋敷があった。ロンドン在住の金融マンの家で、このイギリス人紳士は地元の習慣文化を愛し、教会に宗教絵画を寄贈、村民からも温かく迎えられているという。2008年公開されたアメリカ映画「セントアンナの奇跡」(スパイク・リー監督)の撮影はこの村で行われた。

今回の旅の宿泊先はルッカの南東40分ほどにある椿の村ピエヴェ・ディ・コンピト。有機農業によるワインとオリーブオイル生産をするその名もビオ・アグリトゥーリズモ「椿」。イタリア椿協会のトスカーナ支部会長アウグスト・オルシ氏の経営で、敷地には樹齢200年近い椿も植わっている。今回はまだ椿の開花には時期早尚だったが、かつて3月末に訪れたときにはこんもりとした緑の塊の下がピンク色のカーペットで敷き詰められている様相に目を見張られた。ピエヴェ・ディ・コンピトも山に囲まれる谷間の村だ。しかし、比較的開かれた谷で東側斜面の日照時間は長く、不思議なことに隣の谷では育たないレモンやオレンジなどの柑橘類が元気よく育つ。二日目の朝、オリーブの収穫とオイル搾油作業を見学させてもらう。14ヘクタールの山間の地に育つ3000本のオリーブの木。最良のオリーブオイルは木から実を直接もぎ取るものに限られる。ネットを地面にひき、人間の手の形をした電動器具を振動させて実を落とす新式の収穫機器も導入されていた。しかし平地でトラクターから電源を取って利用するこの器具もきつい勾配の土地では使えず、結局は人間の手で摘み取られる。収穫後のオリーブは直ちに搾油機にかけられる。洗浄して葉や小枝を取り除かれたオリーブの実は真空の状態で搾りだされ(加工過程での温度24度以下)オイルの酸化を防止する。オルシ氏の息子クラウディオが栽培および製造の責任者。「国際オリーブオイル協会ではエクストラヴァージン・オリーブオイルの酸度を0.8%以下と定めているが、ここのオリーブオイルは年々若干の差はあるものの0.2%程度」と説明してくれた。さらに100件の農家からなる協同組合の抽出所も見学した。大切なことは集荷から作業開始までの時間を最短にすること。収穫から3時間以内に作業開始をするようプログラムを組み対処しているという。オリーブオイルの緑色はクロロフィル。オリーブの葉で緑色度を上げることができるため、質の良くないオリーブオイルにこの方法をとる業者もいるそうだ。これまで黄色いオリーブオイルは酸化が進んでいて美味しくないと思っていたが、完全に間違っていた。実際、黄色がかった酸味の低いとてもデリケートなオリーブオイルが存在する。

次にコンピトでお茶の栽培を見学する。イタリアで最初の茶畑が実は隣村、サンタンドレア・デル・コンピトにある。イタリア椿協会のメンバーであり、王室に仕えた高名な眼科医を祖先にもつグイド・カットリカ氏。16世紀築のボッリーニ邸宅の庭には18世紀末、東アジアから欧州に伝えられた椿に始まり、19世紀前半の重要人物の名前が付いた数々の椿の大木が植わっている。椿への愛情が彼をお茶栽培へと導いた。お茶の木の学術名はカメリア・シネンシス、お茶は椿科の植物なのだ。紅茶も緑茶もホワイトティーも加工方法こそ違えともとは同じカメリア・シネンシスの葉である。グイド氏のストーリーに興味をもったフランス人作家が彼へのインタヴューを基に書き下ろした19世紀のヨーロッパを舞台にした茶の栽培者を描いた小説がフランスでベストセラーになり映画化されている。出演者の一人ジェラルド・デパルデュがグイド氏のお茶園を訪ねている。

次の目的地はカパンノリ市営の「椿園」(Camelietum)。グイド氏の茶畑から徒歩10分ほど。道を下り、川を渡ってまた谷を少しのぼったところにある。椿園はコンピト村の南西にあたり日照時間が短い面にある。椿が好む適度の影と湿度を兼ね備えた土地だ。さらに酸性の土壌であることも椿が極東からこの地にもたらされて以来、育ち続けることができた理由である。
オルシ氏と地元の有志が椿だけの造園に踏み切ったのが2002年、14年後の現在、ここにはヤポニカ、サザンカ、ヒゴを含む250種類、1000本の椿の木が育っている。2015年には世界椿協会が選定する『世界中で最も美しい椿園』のタイトルを公営の椿園では初めて取得している。(世界に39件、内欧州に14件)毎年3月に3週間にわたり毎週末開かれる椿祭りも来訪者は増え続け、2016年には82グループが観光バスで訪れる盛況ぶりとなった。2017年には28回目を迎える。最近、ドイツのドレスデン椿協会が寄贈した椿を集めた一角がカメリエトゥムに誕生した。ドレスデン植物園には最初に日本から欧州に伝わった椿の一本と言われる樹齢250年の椿の大木があり、寒いドイツの冬を越すために大きく育った椿のための開閉可能な温室の中で守られている。

昼食はオルシ氏の農園『椿』にもどっていただく。祖母、母ともに料理の腕は村中に定評だというエレナ・パルディーニが台所をしきる。メニューは搾りたてのオリーブオイルをこんがりと焼いた塩気のないパンにかけたもの。塩は好みに応じて各自。次に濃厚なカボチャスープにオリーブオイル。そして汁気の少ない野菜とパンのスープ。(すでに2回食べているスープと基本同じだが、それぞれ作り方が違う。ここでは「スローフード協会」が保護指定する存続が危ぶまれる食材である地元のマメが使われていた)、お茶のエッセンスをきかせたクリームを挟んだスポンジケーキ。これにもオリーブオイルをふんだんに利用して焼かれている。ワインもこの農園で作られるサンジョヴェーゼ。どれもこれも本当に体がホッとする美味しさだ。

昼食後、バスで1時間ほどのルッカ北7キロにあるマルリアのヴィッラ・レアーレ(王家の屋敷)を見学する。ルッカはイタリア国内でも最もヴィッラと呼ばれる庭園付き屋敷が集中する地域。この邸宅、1806年にナポレオンの妹エリーザ・ボナパルテがルッカ・ピオンビーノ公国の長としてナポレオンに拝領されている。イギリス式庭園を取り入れた広大な敷地には池、旧枢機卿邸宅、洞窟、スペイン庭園、レモン庭園、緑の劇場、時計台のある館、噴水劇場、そして王家の屋敷が点在する。広大な庭の南端にある池から軽い傾斜をもってゴルフ場のような芝庭を経て屋敷を望むことができる。さらに屋敷の奥には小高い山が控えており、山と空の境界線、空に浮かぶ雲までがこの屋敷の設計者の意図には入っているかのようだ。ボルボン家、トスカーナ大公国(ほんの20年弱メディチ家の所有となる)、イタリア王国の所有を経て、1923年、ローマの貴族ペッチ‐ブラント家(夫はアメリカ人の銀行家)の手にわたる。その際、敷地内には温水プールやテニスコートが作られている。そして2016年現在、マルリアのヴィッラレアーレは金融業に携わるスイス人の所有となり、大々的な建物の修復と庭の整備をして一般公開されている。

コロニョーラ・ディ・ぺスカリア
https://www.youtube.com/watch?v=bdbRlh3u7hQ

ヴェトリアーノの小劇場
http://www.fondoambiente.it/Cosa-facciamo/Index.aspx?q=teatrino-di-vetriano-bene-fai

ピエヴェ・ディ・コンピトの椿園(カメリエトゥム)
http://www.camellietumcompitese.it/camellietum.htm

ビオ・アグリトゥーリズモ『椿』
http://www.allecamelie.it/cucina/

マルリアの王家の別荘
http://www.parcovillareale.it/
                       
                 2016年11月9日
                                          (イタリア在住ジャーナリスト
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