日本、今は昔ばなし 
     
あべこべ心臓
                                                    ななえせいじ
 
 いまはむかし、といっても七十年ばかし前のことでございます。戦争に敗けた日本は焦土と化し、国民は極度の困窮に追いやられました。こういう苦境の中でも大和魂は日本人のこころに生きていたのです。国民は立ち上がりました。戦後レジームの民主主義とは何かさえ分からないまま体制の変化を受け入れたのであります。つまり大和魂とは、あらゆる変化に対応できる精神力なのだ、と思うのです。さもなければ、戦後の目覚ましい復興は成し得なかったでありましょう。
 復興の象徴を私は昭和三十九年(1964)の東京オリンピックでいたく印象付けられました。その時私は東京におりました。保険会社の養成所で社員教育を受けておりました。その養成所の前の道路がマラソンコースだったのです。あの円谷選手が命がけで走ったコースであります。自衛隊員だった円谷さんは、敗戦国の屈辱を一身に背負って走りました。そして国民の期待に応えました。銅メタル。この快挙は国民を勇気づけました。しかし、これは同時に円谷さんの将来を悲しいものにしてしまったのです。 
 次のメキシコ大会は金メダルとの目標を日本は掲げました。円谷選手もそうなりたいと誓いました。しかしそれは、幹部候補生だった円谷さんを過酷なストレス状況に追いこんでいったのです。民主主義下に発足した自衛隊でありながら、その体質は旧軍に似たところがあったようです。例えば、結婚は上官の許可が必要だ、などとした理不尽な命令も上官には普通のことだったのでしょう。それが為に円谷さんの婚約は破談になってしまいます。円谷さんは疲れ、「もう走れません」と遺書を残し自殺してしまいました。その遺書はあまりに悲しく、世間に衝撃を与えました。
 父上様母上様ではじまる遺書は、「三日とろろ美味しうございました。干し柿もちも美味しうございました」、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」と、なんと切なく、死にゆく人の悲しい胸の内ではありませんか。
 円谷さんは奇しくも私と同じ一九四〇年の生まれであります。それもあって東京オリンピックには格別な思い入れがあります。そうそう養成所で同室になった人のことも思い出されます。彼は、北海道留萌出身の漁師の倅でスキージャンプの選手でありました。なんでもオリンピック強化選手に選ばれるほどに実力がありました。ところが、彼にしてみれば予期しない身体上の理由から強化選手から外されてしまいます。心臓が普通の人とは反対側についていたからだそうです。これにより活躍できなくなりました。酒が強くて、酔うとやくざの真似をしては「北海道といいましても留萌でございます」と啖呵を切っておりました。彼は途中で北海道に帰ってしまいました。
 再びめぐってきた東京オリンピックまであと二年。あの東京オリンピックから五十有余年の歳月が流れております。この間、日本は目覚ましい発展を遂げました。戦争の傷痕から癒え、国民生活のレベルは上がりました。総じて豊かになったのです。でも、国民は幸せなのでありましょうか。
 私は五十有余年前と今の社会情勢と比較してしまうのです。あの頃の日本は、活気がありました。貧しいながらも希望がありました。新幹線が通り、「夢の超特急に一度でいいから乗って見たい」というようなたわいもない希望に満ちていました。皆貧しいから、人と比較することもなく、それだけに貧富の差も少ないのです。たまに豊かな家庭を見ますと、不思議に皆が納得し妬んだりしません。それが目標になったのです。希望があれば生きられる、頑張られる、登用されれば活躍できる、とした社会であったのです。
 ところで今日の日本はどうでしょうか。時の総理は安倍晋三さんであります。強心臓で世界を飛び回っております。しかしながら平和のこと、原発のこと、世界の標準のあべこべを進んでいるような気がしてなりません。安倍さんの心臓はあべこべについているのではないかと見まがうほどであります。
 格差社会の中で国民はあえいでいるのです。例えば、頑張っても正社員になれない、消費をするにも給料は上がらない、残業が常態化し疲れ切っているサラリーマン、こんなことが普通でいいのでしょうか、とにかく貧富の差がありすぎます。見渡せば貧困老人、職に就けない働き盛りの中高年、再就職できない介護離職者、結婚できない若者、いつ雇止めされるかもしれない不安定な非正規労働者、こうした厳しい現実におびえる人々であふれているのです。優しく寄ってくるのは詐欺師ばかり、AI革命、ⅠT革命、などなどカタカナ社会に年寄りはついていけません。その結果が、心地よい言葉に騙されてしまう現実。なんとも住みにくい世の中なのであります。 
 日本の進むべき方向は、このあべこべ状態から脱するところにあるのではないでしょうか。先人の人の教えや意見が聞き入れられるような昔型社会に帰る時が来たと思うのです。財閥とかの昔型企業組織の在り方は多少問題があるかもしれませんが、大きいことはいいことだとする大家族主義に立ち帰る時が来たように思います。特に企業の大家族化は、従業員を護るうえで必要なことではないだろうか。労働組合の衰退も心配な事象であります。イデオロギー抜きの純粋な労働組合が出来ないものだろうか? ともかく論功恩賞の人事で沢山の社長をつくるような分社化をやめる時でありましょう。責任をとらない、とれないサラリーマン社長を頂く企業社会の仕組みは国を停滞させ、結局は国の安全、財産が守られなくしてしまうのであります。
 正常な心臓の皆さま、ここへきてわざわざあべこべの道を行くことはありますまい。よく選択し集中していきましょう。国民の皆様の覚醒を祈ります。
 それにしても、あのあべこべ心臓君、いまどうしているだろうか。
                       
                    2017年12月
生々文庫目次に戻る
最初のページに戻る