日本、今は昔ばなし12 
    
                    夏が来れば思い出す
                                                    ななえせいじ

 今年も8月を迎えました。15日は終戦記念日であります。
 まず、8月1日について。
 徳川家康が江戸城に入府したのは8月1日であったといいます。淡交タイムスによりますと、八月一日を八朔といってこれを祝い、早稲米のお初穂を関係者に配るのだそうです。この伝統行事を裏千家宗家では「八朔御祝儀」の習わしとして大切に守り伝えていくのだとあります。
 鵬雲斎大宗匠は「一碗からピースフルネス」を理念に全国へ平和行脚をしておられますが、8月に入ると平和への思いが一層強くなるといっておられます。そして、戦後が遠くなるにつれ平和の本当のあり難さが分からなくなってきていると憂えておられます。
 この4日と5日にも被爆地長崎において「平和記念献茶式」を執り行うのだとあります。

 夏が来ると思い出します。私が新潟から名古屋に来たのは昭和24年8月1日でありました。終戦から4年後、まだ8歳でありました。広島、長崎のことはもちろん、もし日本の降伏が遅れたならば次が新潟であったというのですから原爆に対する憎しみは忘れるものではありません。
 日本は唯一の被爆国であるという現実があります。それなのに核廃絶条約に日本が署名しないというのが理解できないのであります。政治上の難しい判断は分かりませんが、なぜ?と思わざるを得ません。

 話変わって、8月2日のこと、長岡の大花火をテレビで見ました。毎年この日というのには訳がありました。昭和20年8月1日、長岡は大空襲を受け全滅したのです。花火大会は復興祈願を起源としているのだそうです。その後は、少し変革もありましたが「長岡まつり」と呼ぶようになったのは昭和26年からとされます。
 放浪の画家山下清が「花火は長岡にかぎるな」と云ったそうですが、確かに日本の夏場の風物詩の中でも屈指の観光事業になっております。当の長岡市民は中越地震被害もあり、全国からいかに沢山の観光客を迎えようと祭りに対する祈願は変わらないのだそうであります。

 夏が来ると思い出すのは戦病死したおやじのこともあります。私はまだ6歳でありましたから、はっきり記憶にありませんが、死ぬ間際のおやじを看病した記憶は強く残っております。
 重い肺病で戦地から帰されてきたおやじは一番奥の部屋に寝かされておりました。昼も夜もなく咳込むので助けを呼ぶにも声が出ません。傍で寝起きするのをおふくろは許してくれませんでしたので、思いついて神棚の鈴をおやじの枕元にぶら下げ紐を垂らしたのです。夜も昼もなく鈴が鳴るたびに私は廊下を走りました。何をしてやったか、記憶はあいまいでありますが、おやじが時々、強く抱きしめてくれた感触だけは残っております。
 おやじが死んだのは昭和22年の1月でした。私が小学校に上がる前であります。冷たくなったおやじの身体をおふくろが拭いてやっているのを覚えております。この時、おふくろの涙をはじめて見ました。大人は泣かないものと思っておりましたから、この時のおふくろの涙が私の心をずっと支配することになるのであります。
 このおふくろも34年前に癌で世を去りました。

 先ごろ、私は名古屋の柳橋で茶会を開きました。茶会のテーマは「平和」であります。茶道は裏千家流を稽古しておりますので、鵬雲斎大宗匠の「一碗からピースフルネス」の理念に少しでも近づきたいと、席中の点前は和敬点で行いました。
 和敬点は裏千家淡々斎の考案でありますが、鵬雲斎大宗匠はこの和敬点を以って兵士に茶を振る舞ったそうであります。
 戦争反対、茶を以て平和となす。

                       
                  2018年8月5日
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