日本、今は昔ばなし18 
    
                    尾州久田流の歴史と茶道
                                                    ななえせいじ

 常滑焼で知られる常滑市陶の森での尾州久田流特別茶会に招かれました。知多半島一帯に大勢のお弟子さんを擁する尾州久田流はおくゆかしい点前が持ち味であります。茶会に先立ち下村瑞晃現家元が「尾州久田流の歴史とこれからの茶道」と題してご講演されました。
 尾州久田流を創業したのは西行庵哉明(さいぎょうあんさいめい)こと下村実栗(みつよし)(1833~1916)で天保4年(1833)のことと伝えられます。哉明は尾州知多郡大高(現名古屋市緑区大高町)の郷士で狩野派の絵師として知られる下村丹山(たんざん)の長男として生まれました。幼少のころから才たけて茶道に熱心、文字を得意とし、絵の方は桑名の花乃舎に師事、加えて尾張藩の茶道方としてその評判は広くわたっておりました。とくに幕末はその評判に魅かれて多くの茶人が名古屋にやってきたとされます。その人たちこそが益田鈍翁であり森川如春庵でありました。
 この日の濃茶席に使用された茶碗は鈍翁と如春庵の合作で大ぶりの黒茶碗でありました。次茶碗も二人の合作とされる志野でありました。
 久田流の起源は古く、私たち茶を嗜む者には避けては通れない重要人物が幾人も歴史上に登場します。第一には藤村庸軒(1699年没)。この人は久田流2代受得斎宗利の兄にあたります。千宗旦に茶を学びその娘を妻に迎えております。次には宗全(1707年没)。この人は表千家5代随流斎の兄にあたります。宗全籠は籠花入れの定番として今に知られております。そして宗全の長男は表千家6代覚々斎原叟その人で、次男が久田流4代を継いだ不及斎宗也(1744年没)であります。常滑との縁が深くなったのは不及斎の頃からで宗和流から弟子入りした人が絵師で呉服商の高田太郎庵(1763年没)であります。原叟の手造り茶碗「鈍太郎」をくじ引きで当てた話は有名であります。太郎庵の号もこれに由来するといわれます。もう一人宗和流から表千家6代覚々斎原叟に入門した人がおりました。天満屋九兵衛こと河村曲全(1761年没)であります。
 尾州久田流は不及斎以降に両替商久田家と高倉久田家に分かれるそうでありますが、尾州久田流は両替商の系統になるということであります。
 私は裏千家流を学んでおりますが、なんで裏千家であったのか入門の際の動機づけに確たる信念があったわけではありません。土佐日記じゃありませんが、してみむとてするなり・・に似たような気持ちで始めたのでありますが、嫁探しか彼女探しかというような不埒な動機からでもありません。私は裏千家に入門した時はすでに妻帯しておりましたので、茶道のことが分からないなりにこの伝統文化を理解したいとした志があったことは事実であります。
 日本は高度経済成長期に入っていた当時にあって伴侶探しならそれはそれでよしとしても、ならば生徒数の多い流派がいいとした単純な選択眼を以って裏千家流を習うことにしたのであります。ところが50年後の現在、男女交際は自由、趣味のアイテムも広がってまいりますと、とくに男は彼女探しの動機が薄れてきますと急速に習い事としての茶道の位置づけがしぼんできてしまいました。
 茶道に親しんで50年、ようやく茶の湯という道楽が私なりに面白くなってきたのであります。他流派の人と交わるも良し。裏千家一筋にきた私であっても尾州久田流に大変興味をそそられました。
 鈍翁、如春庵、哉明は尾州久田流を通してたがいに交流があります。如春庵は10歳で茶の湯を哉明に習っており、16歳で「時雨」茶碗を所有者の哉明から直接茶席で所望して入手しております。
 興味のもう一つは「尾州久田流は女点前である」ということにあります。その経緯をかねてから知りたいと思っておりましたところ、今回の茶会でそれが少しわかりました。その日出された「尾州久田流のはじまり」という冊子の中に次のようにありました。
 『久田家の家祖は室町時代末期の佐々木義実の家臣であった久田実房が元祖だとされている。実房は近江国蒲生郡久田村の武将で、千利休の妹である宗円が嫁いだとされる。利休は宗円が久田家に嫁ぐ際、自作の茶杓「大振袖」と女性向けの点前を書に記した「婦人シツケ点前一巻」を授けたのが久田流の源流であるといわれる』と記してあります。
 久田流の点前をとくと観察したいとかねて思いつつも、正客に座ってしまうと余裕がなくてつい見過ごしてしまっていました。この日、一見して久田流の点前は手数が多くて「ていねい」と知りました。それは最初に三つ羽を用いて点前座を清めるところから始まります。袱紗捌きも横にさばきます。これを久田の横引きというのだそうです。これは他流にはない、と家元は強調します。裏千家のようにいっちょあがりという感じではありません。異議はありましょうが、遠州流も宗徧流も武家に起源しているせいかていねいな点前のように感じます。
 尾州久田流は京都両替商に起源を持ち、幕末に哉明が尾張藩の茶道方となってより名古屋に根を下ろし発展しました。下村瑞晃現家元は哉明から数えて5代目に当たりますが、次期家元はお孫さんの現若宗匠の宗隆さんに決まっているそうであります。私は宗隆さんにお会いできたことと、かねてより存じ上げている幹部の一人が同じ町内ということもあって友達感覚とまでいかないまでも距離感が縮まりました。尾州久田流が好きになりそうであります。
 最後に家元は「茶道は心を通じてもてなすにあり、心が通じることでいろいろなことが分かるし、約束を守る事の大切さを知る」とおっしゃっておられます。
 茶会は場数を踏むことで楽しいものになり知己が広がるものでございます。

                       
                   2018年11月8日
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