日本、今は昔ばなし19
                       一途多様 一座建立
                                                    ななえせいじ

 多様な文化を育む名古屋で「やっとかめ文化祭」なる催しが名古屋城をはじめ街中の舞台で繰り広げられました。
 その最終日の11月18日、名古屋城内猿面席での「面影茶会」は、茶どころ名古屋にあってこれまで経験したことのない面白い趣向でありました。何が面白いか、と申しますのは、まず茶会に参加した顔ぶれが多様であったということであります。どの顔も見るからにその道一筋、自信にあふれております。客人は職業、肩書等のあらゆる身分属性を伏せ、あるがまま、市井の生活そのままに臨んだのであります。
 案内に書かれた文章によれば、この茶会に席主はいませんとある。見出しの冒頭に「見渡せば花も主(あるじ)もなかりけり」とある。一途多様、一座建立、すなわち皆席主ということなのでしょう。趣向は掛け軸にまずもって込められております。懐紙に書かれた即興歌と思われる和歌は詠み人知らず、あらしふく山またやまのをのつからはななきかたに花の香ぞする」とあります。席主の念のいった企てが見て取れるのであります。席主はみなさんですよ、といわれてもそうはいかないのが今風の茶会。実は席主がどんな人なのか興味津々なところ、たまたまご自身の発言でまだ40代と知りました。あの落ち着きは生まれながらのものらしく、風貌を以って体をあらわし、語らずして肩書をあらわしているように感じました。人は見かけによらないといいますが、大いに見かけによるのであります。40歳になったら「自分の顔に責任を持て」といったのはリンカーンと覚えておりますが、まさにその通りと思うのであります。私はすでに喜寿を迎えました。どうあっても手遅れですよね。
 こうして肩書や年齢もさまざまに一期一会と相成ったのであります。
 日本、今は昔ばなし。室町時代、秀吉が開いた北野大茶会は身分不問、流儀なし、家にあるものならこぼしでも構わないとした無礼講茶会であったといいます。面影茶会の真意も自分らしさをさらけ出す場所の提供にあったのではなかろうか、とこの時思ったのであります。
 席の拵えもまたよく工夫され、花は曽呂利に太郎庵椿一輪、猿面の席に同化するように朱塗りの曽呂利盆に添えてあります。そして内は春、突き上げ窓から見える外は秋、というふうに春秋を演出しているのでありましょう。席中の あらしふく…の歌は詠み人知らず、作者も身分も分かりませんが、私は勝手に「あらしふく三室の山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり」(能因法師)という百人一首の歌を想起いたしました。
 規矩作法は無頓着でいい、流派を超え、流儀を超え、集う人それぞれが愉しければいいのであります。面影茶会の理想はこれにあるのでしょう、きっと。
 あらゆる制約を打破した茶会はこれからも絶対に必要と思うのです。

                       
                 2018年11月22日
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