ニューノーマルの時代
           茶会の在り方を考える

                                    ななえせいじ

 久しぶりのお茶会はどうでしたか? それがね、予想以上に参加者が少なくてね、お茶会という行事が廃れていくじゃないかと心配になってきたよ。かつては茶会と言えば趣味人のステータスになっていたがここへきて様変わりしてきた感があるよ。それもこれもコロナが原因?それは否定しませんが茶会の社会的意義が薄れてきたことは確かだね。文化教養的存在感が問われる時代が来ているってことかもね。まず点前中心とした修練という伝統的視点を変える時じゃない? 人間素養研鑽の場としての側面を見直す時ってこと? 茶道には歴史が育んできた人間に必要ないろいろなエキスが含まれている。そうした精神的目標に変化が表れてきた。一口に「行儀見習」と言いますが、街の道場は資格を得るための存在になってしまっている。廃れる要素はコロナが契機ではない。実はもっと前、バブル崩壊からではないかと。確かに入門者は増えたが多くはお茶を習うことの意義目標が見出せないでいる。表面盛況に見えても中味が伴わない。国民皆が中流意識を持ち余裕ができたことがかえって茶道の廃れを招いたとも言える。茶の湯400年の歴史を台無しにする部分でもある。時あたかも渋沢栄一が話題になっておりますが、近代日本が蒸気機関車登場と共に全く異質のニューノーマル時代を醸し出していった。その共通点はスピード。より高く、より速くといったオリンピックの競技目標そのままである。したがって茶の湯のような優雅、ゆったり、半日もかけて奥ゆかしくいそしむ余裕などない。その時代の財界人とか趣味人、例えば鈍翁、耳庵、幻庵、逸翁、魯山人、半泥子、如春庵などなどその時代、その時に余禄をもって茶の湯に親しんでいた一流財界人とは同じ立ち位置になれない。マイカーが普及し、効率主義に追われる現代はそんなに急いでどこへ行くのと揶揄されるほどに忙しくて心に余裕など持てないのである。このスピードに付き合っていられない。かくしてお点前が分断され割り稽古なる理屈で科目を多くしたため稽古が段階を踏む修練に成り代わった。これはスピード社会のデメリットである。一見本格をよそいながら学生のクラブ活動程度(失礼)で成り立つものである。としたら野球選手かサッカー選手かケーキ屋さんになったほうがはるかに実用向きと考えて当然。それに人口減が拍車をかける。これが現実の茶の湯だ。どうしたら復活できるか。私は昔に返ることであると思います。伝統文化を大量生産、大量消費型事業にしてはならないということであります。(お前が考えることじゃない、失礼申し上げました)
 コロナと茶。
 例えば、日常的に抹茶を嗜好として嗜むものはコロナに罹りにくい、というようなデータが存在しないものか、検証してみる。茶の湯の本位ではない?(そうでしょうね)  
 時の内閣は、国民の生命を守ると機会あるごとに口にしています。この口車に乗って茶の湯愛飲者は感染症に罹りにくいといったデータを探してみる。口コミはCMを上回る効果があります。たちまちこの情報が拡散し茶の湯復活の原動力に繋がるかもしれない。(あまいですか?)
 もちろん確証があってのことではありません。抗菌作用があると信じて週に数回自服で喫茶しております。健康で傘寿を迎えられたのは抹茶のお陰と信じています。健康保険料は払うばかりでほとんど使っていないというのが自慢です。
 データはこれしかありませんが、政府はコロナ禍で逼迫した健康保険財政を改善させるべく高齢者の自己負担率を上げると決めたようです。確かに年寄りの不要不急の医者通いが過ぎるように思います。(失礼、これは感想です、年寄りのくせに出しゃばるな)
 そこでお茶事の話。昨年も暮れに近い頃、丁度その日が私の誕生日であったので表千家の茶事に招かれました。客は総勢5人。本来の茶事の相に合わせて進行しました。久しぶりに本格的な茶事に接し至福の時を過ごしました。
 又別の日、先ごろ参加した定例の大寄せ茶会は、せいぜい密を避ける程度で茶会の進行は従来のままでありました。マスクをしておりますから親しい人の確認がおぼつかない。つい男同士ということで正客に続きましたら指定席をとられてしまったと勘違いしたベテランご婦人に「あなたそこに座るの」とたしなめられてしまいました。そこでひるんだら雰囲気が壊れると思い「八風吹不動」の心境で端座したのであります。これ80才の人間がなせる厚かましさでしょうね。お許しを、合掌」
                         
         2021年4月17日
生々文庫目次に戻る
最初のページに戻る