諷意茶譚3
            宣言解除後の茶会を楽しむ 
           なごやか茶会と神無月茶会

                                                   ななえせいじ
 
 カゴの鳥状態から解放された茶の湯数寄者達。自粛は我慢の限界だったかもしれません。茶会は幾分にぎやかさを取り戻しました。しかしコロナへの警戒は依然残っております。顔ぶれを見ますと微妙な変化を感じます。茶会に行くか行くまいかは各々の基準にあります。例えば億劫だからとお出かけを躊躇したとすればそれは年齢とかからくる出不精に他なりません。はっきり言えることはアフターコロナの茶会は以前のようで以前ではないということであります。
 そこで最近参加した茶会について少し記述しておきましょう。
 「なごやか茶会」について。主催は裏千家第3支部。場所は東山荘。
濃茶席の掛け軸について。
茶席第一の道具は掛け軸(山上宗二)にある。この日の掛け軸は裏千家中興の祖、十一代玄々斎の消息。三重松坂の豪商竹川竹庵に宛てた9月17日付の手紙。新暦に直しますと10月中旬くらいになりましょうか。竹庵は玄々斎の弟子で竹斎ともいった。内容は遅くなりましたがぎんなんを送りましたというもの。二人は昵懇の間柄であるとわかります。一般に茶会となりますと高僧の一行ものとか豪快な筆致の禅語が主になります。こういうのはむしろ珍しい部類に入る。
 この日登場したもう一つの道具は玄々斎の茶杓、銘「馬尽」(うまずくし)。胡麻竹製で櫂先は大きく堂々としている。

 次に「神無月茶会」について。場所は上飯田の志ら玉。
掛け軸は大徳寺第26世の養叟宗頤(ようそうそうい)の頂き物に対しての令状。箱書きは翠巖従真(すいがんじゅうしん)。日向宮崎の大光寺。仮名文字で書かれており当時としては極めて珍しいもの。女性に宛てておりこの場合書かないのが普通。 
 宗頤は一休宗純(大徳寺大47世)の兄弟子にあたる人で当時二人の間にいろいろ確執があった。今日でいういじめ。一休さんの時代に大徳寺は南北の二派に分かれ対立。形式にとらわれる禅を批判した一休さんは木刀をもって市中を闊歩するという奇行により形式禅を批判したと伝えられる(禅語百科より)。
 話は少し下って江戸初期、沢庵和尚らによって紫衣事件が起こりました。一休さんが糾弾した当時の形式禅と重なります。沢庵らが興した紫衣事件は幕府の罪に問われ沢庵は東北に流されます。ところが時がくれた運により徳川幕府は二代将軍秀忠から三代家光に代替わりします。沢庵らは恩赦により許されます。沢庵は幕府に召し抱えられ神奈川県に東海寺を賜ります。しかしこのことが権力者になびいたとの風評を受け沢庵は生涯の不覚と自戒します。
                                 
                         
               2021年10月10日
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