日本、今は昔ばなし 
    
             ⑧玄々斎につながる尾張の茶の湯
                                                    ななえせいじ

 先ごろ裏千家茶道淡交会愛知第三支部の青年部が中心となって「東海の集い」というイベントが開かれました。今回が4回目、すでに十年近い歴史があります。学校茶道の実地研修も兼ねておりますから、主役は高校生、大学生であります。その生徒たちの初々しさがとてもほほえましく、孫を見ている気がして大変親近感を覚えました。茶の湯に接して間がないという生徒のたどたどしさにむしろ好感が持てました。家元がわざわざ京都から参列され、それぞれ別々の趣向で設えられた7つの席をにこやかに回られました。家元をご案内した席は「玄々斎につながる尾張の茶の湯」とタイトルされており、茶杓(宗旦秘蔵の松風を玄々斎が写したもの)と茶碗、花入(知止斎作の銘老松)は共に展示されました。家元はこれらをじっくりご覧になったし、青年部の点てた茶を喫せられました。私は賑やかしにその場におりましたので、又日庵(ゆうじつあん)手造りの黒茶碗を家元のもとに運ぶお手伝いをしたのであります。緊張の男子高校生に任せるには少し不安でしたのでつい手を出してしまいました。
 又日庵は1792年の生まれ、江戸時代後期の武士であり茶人であり尾張藩の家老であります。三河国奥殿藩の松平乗友の次男として生まれ10歳で三河寺部領主渡辺綱光(渡辺半蔵家)の養子に入り、13歳で家督を継いでおります。
 裏千家中興の祖といわれる玄々斎は1810年の生まれで又日庵の年の離れた実弟であります。江戸後期から明治時代にかけて活躍、好みの茶道具など多数考案されました。業躰という師匠制度を置き、茶道を体系的に指導するシステムを構築したのもこの人といわれます。流派に捕らわれず近代茶道の基礎を築いた人でもあります。この日学生たちが点前した立礼式は玄々斎が考案したものであります。

 日本、今は昔話。渡辺規綱こと又日庵は、三河国奥殿藩4代松平乗友の次男として江戸で生れ、1802年に叔父の三河寺部領主渡辺綱光の養子となり、養父の隠居により1804年渡辺家の家督を13歳で継ぎます。1808年、江戸に入って将軍家斉に拝謁するなど近くにあって1817年に兵庫頭という官職に任じられています。茶の湯に造詣が深く多くの書や陶芸などを残しており、風流に生きた人であります。この人のずっと下の弟(18歳開き)は栄五郎といい、この人も10歳で裏千家10代認得斎の養子に入り11代を継いだ人、すなわち玄々斎であります。尾張徳川12代斎荘(なりたか)、別号知止斎の茶の師匠になり、これが縁で尾張徳川家の茶道は有楽流から裏千家流に改められたといわれます。現家元は16代でありますからことのほかこの地に思い入れが深いのでありましょう。

 2010年10月3日、玄々斎生誕200年祭が愛知県岡崎のホテルで開かれました。玄々斎は1810年生まれです。この時、全国から大勢の弟子たちが一堂に集いました。私も端くれに連座しておりました。余談でありますが、サラリーマン現役時代の同僚でありました渡辺さんという人、実は又日庵の末裔であったのです。彼は胸に花リボンを付けておりました。
 今は昔話、30年ほど前になりましょうか、昭和美術館(名古屋市昭和区)に復元されていた又日庵所縁の捻駕籠席(ねじかごせき)の記念茶会で私はお手伝いいたしました。お茶を点てる役目の私、正客で招かれた渡辺さんという立場でお会いしました。その時はお互いにびっくりしたものです。なぜおまえはここにいるのか、と渡辺さんに訊かれました。下働き要員です、と応えたように記憶しております。この席は、1832年に渡辺家が尾頭坂下屋敷に数寄屋を造営した際の茶室で堀川から船で入りやすく少し捻じっていたための命名とされます。
 玄々斎生誕200年祭の時、渡辺さんは89歳といっておられました。岡崎から8年が過ぎておりますから、ただ今は97歳ということになります。御本人の消息は不明でありますが、息子さんがしっかり後を継いでおられるそうであります。
 生誕208年の今、玄々斎につながる茶の湯の集いは、はからずも私の記憶につながる集いになったのであります。

                       
                  2018年5月20日
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